有本香著『中国はチベットからパンダを盗んだ』(講談社+α新書)、石平の書評
ある日本人女性の見たチベットと日本への警告
有本香著『中国はチベットからパンダを盗んだ』(講談社+α新書)書評
今年の三月に例の「チベット騒乱」が起きて以来、チベット問題やそれに関連する中国「少数民族問題」を論じる書物は多くでいるが、本書のように、一人の女性の手によって書かれたものは案外少ない。しかも著者の女性は、何か特定の政治的傾向性をもつ「評論家」の類いものでもなければ、国際問題専門のジャーナリストでもない。彼女の仕事の分野はむしろ、政治とは無関係のお茶や食文化などの「おいしい物の世界」なのである。有本香さんのことはよく知っている。時々に一緒に酒でも飲んで四方山話をする間柄である。いかにも旅行雑誌の元編集長らしく、頭脳明晰で行動力あり、鋭い洞察力の持ち主である。その一方、美人で繊細で性格明朗で、人の気持ちをよく思いやるような典型的な日本人女性である。
彼女は別に頭から中国のことを嫌っているわけでもない。雑誌の取材などではよく中国の奥地に足を運び、山村の人々との交流を熱心に行い、数人の中国人の親友も持っているらしい。とにかく、有本さんという人間は別に巷間でいう「嫌中派」でもなければ、ましてや「反中国」の政治的意図を最初から持つような人でもない。
しかしこの彼女はつい、「チベット問題」を正面から取り上げて、中国共産党の「少数民族政策」の理不尽さとその独裁政治の汚さにたいする痛烈な批判を内容とする本書を上梓して堂々刊行したわけである。今でも会社関係の仕事上、中国国内の企業と関わりを持つ彼女にとって、本書の出版はおそらく大きなリクスを伴うものであろう。それで有本さんは、この本を書いて刊行せずには居られなかったのである。
それでは、国際政治にもともと無関心で、「嫌中派」でもないこの普通の日本人女性を、このような勇気のある「危険な」行動に駆り立てたものは一体何だったのだろうか。
その最大の理由はやはり、チベット人に対する中国共産党政権の人権弾圧があまりにも酷いものだからであろう。現地取材を通じてその恐ろしい実態を分かってきた彼女には、「それがもはや許せなくなった」から、彼女は本書の執筆を決意したそうだ。中国共産党政権の非道さは、やがて一人の普通の日本人女性までを「反中国的行動」に奮い立たさせた、というわけである。
有本さんの本を読めば、中国共産党政権は武力を持ってチベットを占領した上で、あらゆる汚い手段を尽くしてチベット人を騙して恐喝して威嚇してチベットをわがものにしたそのプロセスがよく分かるし、チベット人の独立運動に対して中共政権がどれほど残酷な弾圧と鎮圧を加えてきたかもよく分かってくる。著者本人は何度もチベットやチベットに隣接する四川省へ足を運び、チベット亡命政府の本拠地であるダラムサムにも長く滞在して綿密な取材を重ねた。弾圧を受けた本人たちの肉声を聞き、ジャーナリスト的真剣さをもってその実態に迫っていた。しかも、公平さを保つためには、対立する側の漢民族の人たちの話にも耳を傾いたようである。
このような堅実なに基づくものだから、「チベット問題」の実態にたいする報告としては本書は一流のものであると思いますが、私自身は本書を読んでもっとも感心しているのは、むしろ中国人と対比されながらのチベット人の民族性にたいする著者の洞察と、チベット問題への理解から発するところの、日本に対する警告なのである。
チベット亡命政府の本拠地であるダラムサムの街で、一人のチベット人のおばさんが茶店を開いてチベットのバター茶を一杯15円ほどで売っている。ある日、茶店に入った有本さんは、一杯を飲むつもりでお茶を注文したが、結局一時間も居座りして注がれるまま何杯も飲んでしまった。お勘定の時には、数杯分の代金を払おうとすると、チベット人のおばさんは頑として、一杯分の代金しか受け取ろうとしない。
著者の有本さんはこの場面をこう描写しているのである。「私が強引に金をテープルに置いていこうとすると、おばさんは私の袖を引っ張り、反対の手で小さく、目の前のナムギャル寺を指差した。おばさんは照れたように笑っていた。『お天道様が見ているからさ』とてもいうように。」
この行を読んだ時、評者の私もかすかな感動を覚えた。チベット人の、何という純朴さと信心深さなのか。それは、彼らを弾圧しているところの中国人とはあまりにも大きな落差でもあるのだ。そういう落差があるからこそ、チベット人と中国人の両方をよく分かっている著者から、「殺されかねないと分かっていても信仰を捨てないチベット人と、神をも畏れない貪欲さで生き抜こうとする中国人。チベット対中国とは、つまり『価値観の対立』である」と指摘された時、元中国人の私も胸を撫で下ろして納得していた。
チベットと中国との対立、その根本にあるのは、まさにこのような人間精神の隔たりではないのだろうか。
そして、日本人の立場からすれば、チベット人を信用すべきなのか、それとも中国人を信用すべきなのか、という問題となれば、その答えはもはや自明のことではないのだろうか。しかし有本さんはまさにこの辺のことを心配しているのだ。お人好しの日本人たちの多くは、今でも中国という国の本性を分からずにして中国の宣伝工作に騙され乗せられているままではないのか。中国共産党政権と手を組んで「東アジア共同体」を創ろうと考えているような馬鹿な日本人たちは今でも大勢いるのではないか。
そしてそのままでは、日本はいずれか中国共産党の「対日工作」に呑み込まれて、国が乗っ取られたチベット人たちの二の舞になるのではないかと、有本さんが警告してるいのである。それは、有本香さんという普通の日本人女性は、自らの「チベット体験」から発した切実な警告なのだから、われわれ日本国民全員は、このような警告に耳を傾けるべきではきないのだろうか。
