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石平の中国レポート

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私の見た 鄧小平、鄧小平の時代と中国
「鄧小平秘録(上)」(伊藤正著 産經新聞社)

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私の見た 鄧小平、鄧小平の時代と中国

私の世代の中国人にとって、鄧小平を語ることはすなわち、私たち自身の人生と、私たちの生きてきた時代を語ることである。

一九七七年に鄧小平が文革後の失脚から復活したとき、私は高校に入る直前だった。この年の秋に、鄧小平はその「改革・開放政策」推進の第一弾として、長年中止されていた大学入学試験の再開を決めた。そのおかげで、私の世代の多くの若者たちは、大学に進学して教育を受ける権利を手に入れた。七七年以前、高校を卒業すると直ちに農村へと送られて過酷な肉体労働を強いられた多くの先輩たちと比べれば、私たちの世代はあまりにも幸運であった。鄧小平の決断の一つで、人生が開かれたわけである。

その恩恵を受けたのは、もちろん私たちだけではない。ある意味では、その時の鄧小平に感謝しなければならないのは、中国という国全体である。彼の復活によって初めて、この国の人民はやっと、毛沢東政治の暗黒時代から脱出して再生の希望を見出したからだ。その時、私たち中国人民にとって、「鄧小平」 という三つの文字は、まさに希望と安心の代名詞であり、正しい道へと進むための道標であった。

その恩恵を受け、私は一九八〇年に北京大学に入った。そして、それから始まった八〇年代を通して、私たちの世代は民主主義国家建設の夢実現のために情熱を燃やし、充実した青春時代を過ごすことができた。私たちのためにこの素晴らしい「青春の門」を開いてくれたのは、もちろん鄧小平であった。彼とそ の右腕の胡耀邦が改革路線の一環として「思想解放運動」を始めたことから、多くの知識人と若者たちは毛沢東時代の独裁恐怖政治に対する反省を深めて、民主主義の理念に目覚めた。

しかし、この夢と情熱の時代に終止符を打ったのも、ほかならぬ鄧小平である。一九八九年六月四日の未明、温厚な常識人指導者として慕われてきたこの「小平爺」は、一転して非情冷酷な暴君となり、本格的な戦車部隊を出動させて丸腰の学生たちを手当たり次第に殺していった。毛沢東の恐怖政治よりも酷い 仕打ちである。

この日を転機にして、少なくとも私自身は、鄧小平と彼の率いる中国共産党独裁政権に完全に幻滅して、心の決別を告げることとなった。国内に生きる多くの仲間たちや、私たちの世代の全員、そして多くの中国人民も同じような幻滅を覚えたのであろう。もはや何も信じられないというニヒリズムの時代がやってきて、無力感と空虚感がこの国に満ちていた。

しばらくすると、このような絶望的な閉塞状態を打ち破って国民に新しい希望を与えたのは、またもや鄧小平である。一九九二年の一月、彼は乾坤一擲の思いで「南巡講話」を行い、「発展こそが絶対な道理」と唱えて資本主義市場経済への全面転向を呼び掛けた。中国という国はそれで生気と活力を取り戻して経 済成長への道を歩み始めた。しかしその中で、かつては民主主義の理念に燃えていた私たちの世代のほとんどは、身も心も市場経済の波に呑み込まれてしまい、鄧小平の望む「鼠の捕れる猫」になりきり、昔の夢などどこかへ捨て去ってしまった。

考えてみれば、私たちの世代にとって、鄧小平は感謝すべき恩人である同時に、憎むべき敵であり、追随すべき良き指導者であると同時に、反抗すべき暴君でもあった。そして追随するにしろ反抗するにしろ、私たちの世代は結局、鄧小平のその節々の政治的決断に翻弄されながら、鄧小平のもうけた土俵の上で戦いを挑み、鄧小平の敷いたレールの上で人生の道を走り、鄧小平の作り出した時代の波に乗っていく運命にあった。

あたかも、十万八千里を一跳びの速さで空を自在に飛べる孫悟空が、いくら飛んでいてもお釈迦様の手の平の上にいるとの同じように、我々は最後まで鄧小平の手の平から逃れることが出来なかったし、今でも私たちは、まさに「鄧小平の時代」を生きているのである。

一つの例外(?)といえる私自身については、今や日本という安住の地を得たことで中国政府を自由に批判できる立場にあるのだが、国内の親族がそれによって迫害を受けずに済んだのも鄧小平が確立した「温和政治」の賜物であると言わざるを得ない。私が十九年前に海外に留学することができたのも、鄧小平 改革のおかげである。私と私の世代の運命は、やはり鄧小平を抜きにしては語れられない。

もちろんそれは、私たちの世代に限られたことではない。中国という国全体にとって、鄧小平はやはり運命の支配人であり、お釈迦様の手の平のような存在である。毛沢東亡き後の改革開放の時代をとおして、中国という国の向かう方向性を定めたのは常に鄧小平だからである。彼が国の方向性を決めるときに貫いてきた信念が何かといえば、それはまた簡単明瞭なものだ。要するに、中国共産党の独裁政治をより強固なものにしながらこの国を豊かにしていく、との一言に尽きる。

若いころから、軍閥による内戦状態の惨状を目のあたりにして共産党革命に身を投じた鄧小平にとって、共産党の独裁政治の堅持とそれによる国の安定化は何よりもの至上命題であり、一瞬たりとも揺るぎのない絶対の原則であった。それを守っていくために、どんなことでもやりぬけるという覚悟が常に彼の心 にあった。自らもその創立者の一人である中国共産党独裁政権をいかに守っていくべきか、この問題意識こそは、鄧小平という筋金入りの共産党指導者の基本の中の基本であり、原点の中の原点であった。

「国を豊かにする」というのもまた、党の独裁政権の堅持という視点からの政策理念であると思われる。絶対的カリスマの毛沢東亡きあとの中国において、相変わらずの「清貧社会主義」ではもはや国民の長年の不満を抑えきれない。そのことを誰よりも知っていたから、鄧小平は経済の立て直しを重点とする改革 開放路線を始めたのだ。経済を発展させて国民を豊かにして、国の「総合力」を強化していく方策、これこそ共産党政権の永続性を保っていくための「百年の計」である。このような認識は、まさに鄧小平という堅実派政治家ならではの深謀遠慮であり、鄧小平の政治と毛沢東流乱暴政治との最大の相違点である。

したがって、鄧小平自身による「二つの基本点」という言葉が示した通り、共産党独裁政権の維持を着眼点とする「四つの原則」の堅持と、経済的発展を着眼点とする改革開放路線の推進の両立は、そのまま鄧小平の定めた中国の方向性といえよう。一九七七年の政治的復活から一九九七年に死去するまでの二十二年間、鄧小平はずっと、中国という奔馬を自由自在に制御しながら、自らの設定した方向に向かってそれを走らせた。中国が少しでもこの方向から外れていると、あるいは誰かが中国をその方向から少しでも外させようとすると、普段なら穏やかな好 々爺であるはずの鄧小平は、いきなり鉄の意志をもつ峻烈な「御者」となり、果敢な措置をもって邪魔者を排除し、鞭を振りかざして「奔馬」を叩き、この国の走る道を既定の方向へと正した。

八〇年代初頭の鄧小平は、改革開放政策遂行のために毛沢東の暗黒政治に決別を告げたと同時に、党の独裁権力を守るための「四つの原則」を持ち出した。守旧派の華国鋒一派を権力の座から引き落とす一方、民主化運動の先駆けである魏京生という人物をまったくの冤罪で牢獄に送り込んだ。鄧小平のデザイン した鄧小平の時代が、このような冷酷なバランス感覚の中で始まった。

八〇年代の後半、鄧小平の意に反した形で、中国の民主化運動の展開がいよいよ党の指導的な立場を脅かす勢いとなった。すると、鄧小平は自らの腹心幹部である胡耀邦を容赦なく切り捨てることによって運動の鎮静化を図った。中国は再び、彼の望む通りの軌道へと戻ったのである。しかし、八九年における胡耀 邦の死をきっかけに、史上最大規模の民主化運動が全国的に広がり、若者と民衆たちが一斉に立ち上がった。中国はもはや、鄧小平魔術のマインド・コントロールから完全に解放されて、鄧小平の見知らぬ方向へと狂奔する寸前であった。

そんな時だからこそ、鄧小平はまさに鄧小平ならではの本領を発揮して見せた。虐殺者としての汚名を負うのも辞さずに血の鎮圧の決断を下し、不退転の決意をもってそれを断行した。政権側にとっての未曽有の危機的事態がそれで収拾されたが、鄧小平自身も、今度ばかりは深い挫折感を味わった。民主化運動を 鎮圧したその代償として、彼の改革路線も大いなる後退を余儀なくされた。

しかし、鄧小平は不死身であった。一九九二年の一月、例の南巡の旅において、八十八歳の一老人の口から発せられた淡々とした一言一言が爆発的な威力をもって政権中枢の守旧派たちを震撼させ、政治の流れを一気に変えた。中国は一転して、改革路線の目指す究極の目標へと向かって加速的に走り出した。最後 に笑ったのは、やはり鄧小平である。

よく考えてみれば、改革開放路線の始動以来、中国の方向性を決定づけるいくつかの歴史の節目において、左右両派の主張をはねつけて衆議を排して、自らの信念を貫いて孤独の決断を下したのは常にこの鄧小平であった。その中で、彼は戦車をもって学生たちを鎮圧するのも辞さないし、資本主義の市場経済を共 産党の中国に導入するのにも何のためらいもなかった。華国鋒などの守旧派を政権から一掃するための権力闘争をやり抜け、胡耀邦と趙紫陽という自らの指名した後継者の二人をも切り捨てしまった。

そして八〇年代初頭からと二〇〇〇年代の前半を通して、「共産党独裁政権の保持」と「改革開放の推進」という鄧小平政治の「二つの基本点」がみごとに貫かれて、中国という国はおおむね、鄧小平の示した方向へと向かって走り続けた。鄧小平の生前はもちろんのこと、一九九七年に鄧小平が死去したあとも、 中国共産党指導者の「三代目」としての江沢民政権は鄧小平路線の継承と推進に終始したから、鄧小平無き鄧小平の時代がしばらく続いていた。

その結果、鄧小平の思惑通り、共産党独裁政権が守り通されてきた。その間、ソ連共産党が潰れて、東欧諸国の共産党政権もことごとく崩壊した。唯一、中国の共産党政権が多くの難局と時代的変化の波を乗り越えて今までに生き延びてきたのである。

その一方、中国の経済は凄まじい成長を続けてきて、国民全体の生活水準は毛沢東時代と比べものにならないほど向上した。今の中国は、後述する多くの致命的な問題を抱えながらも、曲がりなりにも世界の経済大国となっている。もちろんそれらはすべて、鄧小平の業績があってからこその展開であり、鄧小平であるからこそ成し遂げた歴史的「偉業」である。前述のとおり、毛沢東亡き後のいくつかの歴史的節目において、鄧小平は孤独な決断を下し、非凡な政治力をもってそれを断行した。だからこそ今の中国があるのである。

だとすれば、もし鄧小平という人物がいなかったら一体どうなっていたのか、という問題が浮上してくる。歴史には「もし」という言葉は禁物といわれるが、上述の歴史的節目においてこの「もし」を設定してみれば、中国の現代史が全く違ったものに見えてくるはずだ。

考えてみよう。毛沢東が死去した後に、もし鄧小平がいなかったら、中国は一体どうなったのだろうか。その場合、おらそく毛沢東の遺命によって後継者となった華国鋒とその他の守旧派を中心に、毛沢東の政治路線がそのまま継承されていっただろう。「改革開放」が始まるようなことはもちろんない。そうする と、その後の中国は、父親の金日成の後を受け継いだ金正日の北朝鮮と大差ない惨めな国になっていたに違いない。もちろん、そのままでは共産党独裁政権自体の弱体化か凶暴化が避けられないが、共産党の天下がどれくらい長く維持できたかがまったく見えない。

さらに考えてみよう。一九八九年、民主化運動の嵐が中国全土を席巻した時、もし鄧小平がいなかったら、中国はどうなっているのだろうか。本書の主体部分でも克明に記述されているとおり、その時、もし鄧小平の強い意志と素早い決断がなければ、おそらく軍隊を出動しての鎮圧は実施されていなかっただろう。だとすれば、その後の展開はどうなったのだろうか。もちろん、学生たちの民主化運動が鎮圧されずに成功したからといって、中国はすぐさ ま安定した民主主義国家に変身できるとは思えない(少なくとも今の自分にはそう思えない)。その場合、おおむね二つのシナリオが考えられる。

その一つは、共産党政権と民主化を求める知識人や若者たちとの和解と共同参画が実現され、中国が一連の混乱や試作錯誤を乗り越えながらも民主主義体制へと移行していくという楽観的なシナリオである。

もう一つは、共産党政権と民主化運動勢力との対立がさらに深まっていくことによって国全体が分裂と大混乱に陥っていくという悲観的なシナリオである。どちらのシナリオの確率が高いかはここでの論題ではないが、いずれの場合、中国はもはや現在の中国のままではなくなっていたのは確実なことである。鄧小平という一人の指導者が、血の鎮圧という非情な決断を下したからこそ、中国共産党は今でも政権の座に居座り続け、中国は今の中国となっているのである 。

そして最後に、もう一つの「もし」を見てみよう。例の「南巡講話」が発表された時に、もし鄧小平がすでに死んでいたとしたら、つまり、もし鄧小平の「南巡講話」が最初からなかったとしたら、中国はどのような方向へと向かったのだろうか。これもまた、本書の本文部分で詳細に記述された通りのことだが、その時の江沢民政権が改革開放を否定するという「保守」の方向に全面的にシフトしていくなかで、もし鄧小平による乾坤一擲の「南巡講話」がなければ――鄧小平がすでに肉体的にも政治的にも生命を失っていれば――江沢民政権はますます保守 化していただろう。つまり中国がますます、社会主義的統制経済への回帰を加速させていったのは必至だったであろう。

だとすれば、市場経済への全面的な方針転換は当然ないし、市場経済の推進がもたらした経済の高度成長もない。中国が今のような経済大国に成長してくるようなことはないのは明らかである。

つまり、共産党による独裁政治を強固なものとしたままで経済大国となった今の中国は、紛れもなく鄧小平という人間があっての中国であり、鄧小平のグランドデザインにしたがって作り上げた鄧小平の国なのである。

現在の中国共産党政権と中国について、世界中の多くの人々(とくに某島国の人々)は、あまりにも過大評価している節がある。「富国強兵」に成功した中国共産党政権はいかにも深謀遠慮の老熟政権であるかのように見えるし、高度経済成長を続ける中国は間違いなく世界の超大国となる運命にあるかのように思われる。「二一世紀は中国の世紀だ」と信じて疑わない人々も大勢いるのである 。

しかしよく考えてみれば、中国共産党政権が今日まで生き延びることができたのも、中国が現在のような経済大国に成長することができたのも、単なる奇跡的な好運がもたらした偶然のおかげというしかない。

この奇跡的な好運とはすなわち、中国共産党が鄧小平というかけがえのない賢明な指導者を頂いたことであり、そしてこのかけがえのない指導者は一九九七年までに生きていたということである。

改革開放が始まった一九八〇年の時点で、鄧小平はすでに七十八歳の高齢だったから、死んでいたとしても別におかしくはない。そして一九八九年や一九九二年の時点となれば、鄧小平がもはやこの世にいないとしても、なおさらおかしくはない。しかし偶然にも、この老人はたいへんな長寿であった。先代の毛沢 東が八十三歳で死んだのに対して、彼は九十五歳の天寿を全うした。そして一九八〇年、一九八九年、さらに一九九二年という、現代中国の運命を決めた三つの大事な年に、この不死身の老人はちゃんと生きていて、余人をもって代えることのできない決定的な役割を果たしたのである。

言ってみれば、凄まじい経済成長を成し遂げた巨大国としての今の中国があるのは、別にこの国のあるべき宿命でもなければ、何らかの歴史的な必然性からの結果でもない。そうなったことの理由はただ一つ、要するに鄧小平という共産党政権の守護神が、七十五歳でも八十五歳でも死ぬことがなく、九十五歳まで 生きて、共産党政権の舵取り役としてこの巨大国の進むべき道を定めた、というだけのことである。

結局、中国共産党政権と中国の運命は、鄧小平という一老人の寿命がどれくらい延びるかによって決められるところであった。そしてたまたま、この老人は長寿だったのであり、共産党にとって、それは何よりの幸いであった。何のことはない。中国共産党政権と中国という国は、たまたま運が良かった、ということである。

問題は、中国はこれから一体どうするのかということである。今から十一年前に、あの不死身の鄧小平がすでにこの世から消え去ったことは紛れのない事実だ。今までの中国を導いてきた鄧小平路線の有効期限はいつまでなのか、守護神としての鄧小平の「霊験」はいつまで効き続けるのか、中国と中国共産党は鄧 小平ほど賢明にして強力な指導者を頂くような好運に再び恵まれることがあるのか、すべてが問題となってくるのである。

まず指摘しておくべきなのは、中国の現政権からは、鄧小平のような先見性とカリスマ性を備えた指導者はもはや二度と出てこない、ということである。日中戦争と国内内戦時代の二十数年間にわたって戦火の修羅場をくぐりぬけ、毛沢東政権下では二度も失脚させられながら奇跡的な復活を成し遂げた。

このような非凡な政治経歴があったからこそ、一九八〇年以後の鄧小平があるのだ。現在の江沢民や胡錦濤のような「サラリーマン」指導者はその足元にも及ばない。次世代の「青二才」な若手指導者となればなおさらのことである。鄧小平のようなカリスマ指導者を生む環境と条件はすでにないのである。

そして何よりも重要なのは、一九九二年の「南巡講和」以来の鄧小平路線が、すでに破たん寸前の曲がり角にさしかかっていることである。共産党一党独裁下での資本主義市場経済の全面導入は、十七年間にわたる中国の経済成長をもたらした。しかしその一方、貧富の極端な格差や環境の破壊や拝金主義、汚職の 氾濫などの大いなる歪みを生じさせている。

現在の中国では、人々が鄧小平流の「白猫黒猫論」に鼓舞されて一獲千金の投機経済にいっせいに狂奔した結果、ダブル・バブルとよばれる不動産バブルと株バブルの異常な膨張が実体のないバブル経済を作り上げてしまった。それにより、年間九万件の暴動の発生が象徴するように、失業の増大や格差の拡大が社 会的不安を増幅させつつある。鄧小平はかつて、「もしわれわれの改革が貧富の格差を拡大させたこととなれば、それはわれわれの失敗を意味する」と語ったことがあるが、彼自身の基準からすれば、鄧小平の改革はすでに失敗に終わっているはずである。

このような状況の中で二〇〇七年十月、中国共産党の十七回全国大会が開かれた。共産党が自国の首都で大会をやる際に、通常の警察力を総動員したのはわかるが、それ以外に八十万人以上の民間人までを警備に動員した。そのことから見ても、中国の社会情勢はいかに不安定であるかがよくわかるのだが、この大会において、現在の共産党領袖である胡錦濤総書記は、ついに鄧小平路線から離れる政策理念を打ち出しているのである。「科学的発展観」と「協調社会の建設」がそれである。

今になって「科学的発展観」と言い出すとは、それは結局、今までの発展があまりにも「科学的でない」ことを認めたことになるのだが、その意図するところはすなわち、「発展が絶対な道理だ」という鄧小平流の経済成長一辺倒主義に対する是正である。それと同じように、「協調社会」という言葉が持ち出されたことの意味はすなわち、現在の中国社会はあまりにも「不協調」であることの証拠であるから、経済成長のもたらした貧富の格差を少しでも緩和させたいという思いがそこに込められているはずである。

つまり今の中国共産党政権はようやく、あまりにも長く続いた鄧小平の時代からの脱出を図ろうとしているのである。裏返していえば、中国に約三十年間の安定と成長を保障してきた鄧小平路線の魔力は、そろそろその賞味期限が切れようとしているのである。今までは共産党独裁政権の守護神であり続けた鄧小 平と彼の政策路線は、すでに中国共産党と中国にとってのマイナス要因となりつつあるのである。

鄧小平路線がもたらした弊害がますます顕著化してくる中で、中国共産党独裁政権はさらに長く生き延びていくために、もはや鄧小平路線と別の方向性を探し出して、鄧小平とは別のご本尊にすがっていくしかない。

しかし、一体だれが中国に新しい方向性を示して、この巨大国をその方向に向かって進むように制御できるのか、これこそが問題なのである。

「科学的発展観」と「協調社会の建設」を言い出した胡錦濤は結局、きれいな言葉を並べる以外にその実現の具体策を何も打ち出していない。優等生として育てられ、鄧小平の鶴の一声で指導者になった彼は第二の鄧小平にはなれるわけはない。鄧小平路線のままではもはややっていけないことを分かっていても、胡錦濤程度の人物は国の目指すべき方向性を定めるほどの見識や力はまったく持っていないものである。

つまり今の中国では、鄧小平の限界を超えていくべきなのに鄧小平ほどの指導者はすでにいないのである。多くの難題を解消していくためには鄧小平ほどの見識とカリスマが必要となっているのに、それが生まれてくるすべもない。恐らく北京五輪後に、ダブル・バブルの崩壊がもたらす経済の停滞と社会的不安が増大していくだろう。

中国共産党政権が生死存亡の危機に直面したとき、あるいは生き延びていくための歴史的大転換にさしかかったとき、何度もこの政権を窮地から救い出した鄧小平の奇跡は、もはや二度と現れてこないのが明らかだ。中国共産党はいつまでも格別の好運に恵まれるわけはない。守護神と救世主はすでにいないのだ。

だとすれば、「かつての『天安門事件』のような重大局面が再びやってきたとき、中国共産党政権ははたしてそれを乗り越えて生き延びることができるのかどうか?」これはもはや神こそぞ知るの問題であり、今世紀初頭の世界に存在する最大の問題なのである

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