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石平のチャイナウォッチ

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石平の中国レポート

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『私は「毛主席の小戦士」だった』より

お祖父さんは、田舎の漢方医だった。私たちの暮らす村だけでなく、周辺の幾つかの村でも頼りにされる、地域の「名医」であったようだ。

その時、田舎の知識人たちも、ほとんど「革命」によって、迫害を受ける身となったが、お祖父さんだけは無事であった。やはり紅衛兵も「造反派」も、もし自分たちが病気になった場合、この「名医」のお世話にならざるを得ないことくらいは知っていたから。

そういうわけで、祖父と祖母と私、老人と子供からなるこの3人家族の生活は、いたって平穏で安定していた。

私は7歳になると、村の小学校に通うことになったが、その学校の先生たちはといえば、要するに、地元の中学校の卒業生が、そのまま小学校の教師になったようなものである。

結局、私の啓蒙教育を引き受けたのは、やはり漢方医のお祖父さんである。

「算数ぐらいは学校で勉強してもよいが、お前の国語(中国では「語文」という)の勉強だけは、あんな青二才の先生には絶対任せられない」というのがお祖父さんの弁であった。

私が小学校に上がったその日から、熱心な「教育ジジ」となったお祖父さんは、毎日の日課として私一人を相手に、自己流の国語授業を行うことになった。

そのお陰で、国語の成績にかけては、私は常にクラスの一番であった。悪ガキどもが誰も書けない難しい漢字は、さっさと書けるし、学校の先生でさえ知らない四字熟語も一杯知っていた。この小さな小学校で、私はいつか、国語の「師匠」と呼ばれるようになっていたのである。

そして小学校4年生あたりから、お祖父さんの私に教える国語は、以前とはまったく違う、奇妙な内容になった。

以前は、新聞や本を教材にしていたが、今度は、お祖父さんが一枚の便箋に幾つかの短い文言を書いて私に手渡して、ノートブックにそれを繰り返し書き写せと命じた。しかも、一枚の紙が渡されると、1週間か10日間は同じものを何百回も書き写さなければならない、という退屈極まりない勉強である。

さらに奇妙なことに、明らかに現代語とは違ったそれらの文言の意味を、お祖父さんは、いっさい教えてくれなかった。どこから写してきたか、誰の言葉であるかもいっさい語らない。「書き写せ」という一言だけである。

今でもはっきりと覚えているが、それらの文言は、たとえば、次のようなものだった。

「弟子入則孝、出則弟、謹而信、汎愛衆而親仁」

(弟子、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹しみて信あり、汎く衆を愛して仁に親しむ)

「不患人之不己知、患己不知人也」

(人の己れを知らざることを患えず、人を知らざることを患う)

「知之為知之、不知為不知、是知也」

(これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。これ知るなり)

「興於詩、立於礼、成於楽」

(詩に興り、礼に立ち、楽に成る)

「君子和而不同、小人同而不和」

(君子は和して同せず、小人は同じて和せず)

等々であるが、小学校4年生の私には、それらの言葉の意味が、まったく分からないのは言うまでもない。何となく、たいへん意味の深い古い言葉であると分かってはいたが、とにかく、お祖父さんの命令にしたがって、毎日我慢して我慢して、それらの難解を言葉を何百回も、書き写すしかなかった。

しかし、それよりもさらに不思議に思ったのは、この件にかんする祖父の奇怪な態度である。

毎日家の中で、私にそれらの言葉を書き写させながら、学校では、そのこと絶対言ってはいけないと厳命した。書き写した紙やノートは、家の外に持ち出さないように厳重に注意された。

そして、一枚の便箋に書かれた言葉を、10日間をかけて書き写した後、お祖父さんはわさわざ、その便箋と私の写したノートを回収してしまうのである。

お祖父さんが私に書き写させたそれらの言葉は、きっと良い言葉であろう。なのに、どうして、悪いことでもやっているかのように奇妙な行動を取るのか、子供の私には不思議でならなかった。

そして、ある日の夜、私は信じられないような光景を目撃することになった。

夜、私がおしっこに起きて、庭にあるトイレヘ向かう途中、台所の前を通った時に、人の気配を感じた。ひそかに中を覗くと、普段は、決して台所に入らないお祖父さんの姿があった。背中をこっちに向けて、しゃがんで、何かを燃やしていた。目をこすってよく見てみると、そこで燃やされているのは紛れもなく、私がお祖父さんから渡された語句を書き写したノートではないか。わが目を疑うほどの、衝撃的な光景であった。

なぜ、どうして、そんなことをしなければならないのか。その当時の私には、まったく分からなかった。

そのナゾが完全に解けたのは、お祖父さんが亡くなった後、私が大学生になってからのことである。

実は、お祖父さんが私にその書き写しを命じたのは、全部、かの有名な「論語」の言葉であった。

生徒に論語の言葉の意味をいっさい説明しないまま、それを何百回も書き写させるというのは、まさにお祖父さんの世代の教育法であったが、お祖父さんは、この古式に則ったままの論語教育を、孫の私に施したわけである。

勿論、このような教育を、まるで悪事でもやっているかのように、ひそかに行ったというのは、別に「古式」に則ったわけでもなんでもない。

それは「文化大革命」時における特異な事情によるものであった。

毛沢東の発動した「文化大革命」は、文字通り、「文化」に対する革命でもあった。つまり、中国の伝統文化というものに、「反動的封建思想・封建文化」のレッテルを張った上で、徹底的に破壊してしまう、という狂気の「革命」である。その中で、孔子の思想は、当然この葬るべき「反動思想」の筆頭に挙げられている。

そうした状況下で、子供に論語を教えることなど、まさに言語同断であった。「反動思想をもって青少年の心を毒する」大罪として、糾弾されなければならないはずであった。

結局、お祖父さんが私に論語を教えるには、ああするしかなかったのだ。もし、それが外に知れたとしたら、わが3人家族の運命は、ひどいことになっていただろうから。

それにしても、当時のお祖父さんは、どうしてそれほどの危険を冒してまで、私に論語を教えたがったのだろうか。大学生になってあの田舎の村に帰った時、やっとお祖母さんの口からその訳を聞き出した。

実はお祖父さんは、孫の私に自分の医術を全部伝授して、立派な漢方医に育てていくつもりだった。自分の子供たちは、誰一人、彼の医術を受け継ごうとはしなかったから、孫の中でも特に聡明(?)であった私が祖父母の家に預けられた時、お祖父さんはひそかに、このような決意を固めたようである。

そして、祖父の世代の漢方医たちの考えでは医術はまず、「仁術」でなければならないから、お祖父さんは医術伝授の前段階の「基礎教育」として、論語の言葉を私に教えた、というわけである。

しかし、残念なことに、私が小学校5年生の時に、成都にいる両親の元に戻されてからまもなくして、祖父は肺がんで亡くなった。孫の私を漢方医に育てるというお祖父さんの夢は、ついに叶わなかった。

以上が、私が子供時代に体験した、まさに「論語読みの論語知らず」、という奇妙な勉強体験の一部終始であるが、そのお陰で、論語の多くの言葉が記憶の中に叩き込まれた。一つの語句を何百回も書き写せば、ちゃんと覚えていないはずはない。中年になった現在でも、論語の言葉の一つを耳にしただけで、一連の語句は次から次へと、頭の中に浮かび上がってきて、湧くように口元に登ってくるのである。

今から考えてみれば、5歳から小学校5年生までの6年間の田舎での生活が、この私の心に深く刻み込んだものは、田んぼと山と竹林から織り成される、あの懐かしい故郷のイメージと、「仁」や「礼」や「信」などの単語から構成される、論語の奥深い世界なのであった。

祖父のお陰で、私は「故郷」と「論語」という、自分の人生の原点となる、二つの貴重な財産を得た。

●日本で再び出会った「論語」の世界

しかし、小学校5年生の時に成都に戻ると、状況は一変した。

都会の学校で行われている、「新興宗教式」の毛沢東思想教育によって、私はやがて、「毛沢東の小戦士」となっていった。

子供のことだから、新しい環境に入ると、昔のことはすっかり忘れた。今度は、毛主席の語録を頭一杯に叩き込まれた。以前に覚えた、意味も出所も分からない論語の言葉などは、徐々に記憶の一番奥に追いやられていったのである。

そして、大学に入ってからは世界観の崩壊を体験して、それを起点にして、民主主義と自由の理念に目覚めて民主化運動に投身していった。このような激動の時代を生きていれば、子供の時のことはもはや遠い昔の、遠い世界のこととなっていったのは言うまでもない。

大学の専攻は哲学であったが、当時の哲学部の授業科目やシラバス(講義細目)といえば、当然、「官学」としてのマルクス主義を中心に組み立てられていたのである。

大学3年生の時、やっと中国哲学史の授業が始まった。さすがに、「孔孟思想」あたりの勉強となると、以前、祖父によって叩き込まれた、論語の文句が一気に蘇ってきた。懐かしく、憤れ親しんだ言葉の数々である。

しかし、その時の自分にとって、それはどうでもよいものであった。

私の心を完全に捉えて「占領」しているのは、やはり「民主」と「自由」という、この時代のもっとも輝かしい合言葉であり、毎日頭の中で考えていたのはやはり、いかに民主化を実現できるか、という書生気分の「天下国家論」であった。

そして大学卒業後も、そのまま、民主化運動の参加者の一人として教職につき、民主主義の世界に憧れる中国青年の一人として、日本へ留学にやって来た。

自分たちの民主化の夢が完全に破れたのは、この日本留学の時期であった。が、実はちょうどその時、私は意外にも、外国であるこの日本において、数千年前にわが祖国から生み出された、あの「論語」の世界とふたたび出会ったのである。

「天安門事件」が起きた時、私は神戸大学大学院の修士課程1年生だった。

武力鎮圧の後に、中国国内からの情報が完全に途絶えたので、自分で情報の収集に努めるしかなかった。頼りはやはり雑誌や本である。今でも鮮明に覚えているが、その時の日本の書店で新作コーナーの大半を占拠していたのは、「天安門事件」関係の写真集やレポート本であった。

当時は神戸に住んでいたので、よく三宮のジュンク堂へ行った。毎週一度は足を運んでいたから、徐々に時事コーナー以外の本棚へも回るようになった。

そしてある日、本屋の奥の人の少ないところに、「中国古典」と標示される棚を発見した。

まさに、目を見張るほどの驚きの光景が、目の前にあった。

「孔子」「孟子」「荀子」「墨子」「韓非子」、それに「論語」「礼記」「史記」「左氏春秋伝」。懐かしい固有名詞がプリントされている本の数々は、静かに、いかにも気品高く、存在感たっぷりの風情で、ずらりと並んでいたのである。

論語関連の本だけでも、本棚の上下数列を占めている。

『論語の講義』『論語新釈』『論語物語』『論語の新しい読み方』『論語の世界』『孔子と論語』『朝の論語』『人間学論語』等々、あらゆる角度から論語を読み、あらゆる視点から論語を論じている感じであった。

「論語」という書物は、それほど広く、それほどの熱心さで、日本で読まれていることを、初めて知った。

遠い昔の時代に、わが祖国から生まれた孔子様の思想と心は、数千年の時間と数千キロの距離を超えて、この異国の日本の地に生きていたのだ。

自分にとっては、まさに驚きと感激の発見であった。

それ以来、書店を訪れる度に、必ず「中国古典」あるいは「中国思想」のコーナーへ行き、本棚を眺めながら、感動なのか郷愁なのか、自分でもよく分からないような気分に浸っていた。

だが、その時の私には、なぜか論語や孔子を手に取って読もうとする気が起こらなった。「天安門事件」の直後だったから、心は別のところにあったのだ。

そして、「天安門事件」から半年も経って、徐々に落ち着いて勉強に専念できるようになった時、今度はまた別の思わぬところで、「論語」と再び巡り会った。

私の大学院の修士課程での専攻は社会学である。指導教官の先生は、フランスの近代社会学者である、エミール・デュルケームの思想を研究テーマの一つにしていた。

ある日のゼミで、デュルケームの「社会儀礼論」がテーマとなった。その学説を簡単に説明すると、デュルケームは社会統合における儀礼の役割をとりわけ重視し、人々が儀礼を通じて関係を結び、共に儀礼を行うことによって、集団的所属意識を確認して、集団としての団結を固めようとするものであると考えているのである。

今まで、「儀礼」などは単なる形式にすぎず、あってもなくてもよいものではないか、と考えていた自分にとって、デュルケームのこの「社会儀礼論」はかなり新鮮で、たいへん面白かった。

そこで、ゼミの討論時間に、私は自分の意見を述べた後で、思わず次のような「生意気な」感想を付け加えた。

「さすがにフランスの社会学者ですね。深いところを見ていると思います」

それを聞くと、指導教官は顔を私に向けて、口許に薄い含み笑いを浮かべながら、こう言った。

「何を言っているのか君、そういう深いことを最初に考えたのは君の祖先じゃないのか」

意表をつかれて戸惑った私の顔を見ながら、先生は続けた。

「『礼の用は和を貴しと為す』という言葉、君は知らないのかね」

先生が口にしたのは、何らかの古典の漢文であることは、すぐに分かったのだが、その原文は一体なんだったのか、すぐには自分の頭に浮かんでこなかった。

そうすると、先生はペンを取って、メモ用紙にさっと書き示した。

「礼之用、和為貴」という語句である。

先生のペンが止まったその瞬間、私は理解した。

そうか、分かった。あの論語の言葉じゃないか。

「礼之用、和為貴。先王之道、斯為美」

二十数年前に、祖父によって叩き込まれたこの文言の漢字の一つ一つが、鮮明に浮かんできたのである。

「論語の言葉ですね、先生」と答えた。

「そうだ。分かっているじゃないか。君は中国人だから、論語をもっと読みなさい。日本人の諸君も読んだ方がよい。ためになるぞ」と先生は満足げに頷き、この日の「論語談義」を締めくくった。

この日のゼミでの出来事は、多くの意味において、自分にとってはたいへん衝撃的だった。

日本人の、しかも西洋の社会学を専攻とする指導教官の口から、論語の言葉を聞かされようとは、思ってもみなかった。

そして先生に言われて考えてみると、確かに、「礼之用、和為貴」という論語のこの言葉は、あの偉大なるデュルケームの「社会儀礼論」が言わんとするところの真髄たる部分を、一言の簡潔さと鋭さをもって、言い尽くしている気がする。しかもそれは、いわば近代的学問が、西洋に誕生する遥か数千年前に、中国の先哲から発せられな言葉であった。

論語とは、それほど奥行きの深いものなのか。中国人の私は、初めて分かったような気がした。

考えてみれば、二十数年前に自分の祖父から、論語の数々の言葉を覚えさせられていながら、不肖の私は、結局、西洋の学問を専攻する日本人教授の啓発によって、あの言葉の持つ本当の意味を、初めて理解できたわけである。

しかし、それはまた、たいへん恥ずかしいことでもあった。

中国人の私は、一体何をやってきたのか。天国にいるわがお祖父さんに、数千年前に生きたあの孔子様に、この不肖の子孫の私は、一体どのような顔を向けることができるのだろうか。

せっかく論語の言葉をあれほど覚えたのに、どうしてその意味をもっと勉強しなかったのか、と真剣に反省した。

そして、「よし、やろう。論語を一度ちゃんと読んでみよう」と決心した。故郷の田舎で、わが祖父に論語の言葉が書かれた一枚の紙を初めて渡されたあの時以来、実に17年ぶりに、この日本という異国の地で、私は再び、論語の世界に入ろうとしたのである。

論語を読もうと思えば、テキストは幾らでもあった。最初は、金谷治や宇野哲人などの碩学の訳注を頼りにして原文を何回も繰り返して読んだ。

読書の範囲は徐々に日本の儒学研究・思想史研究の大家たちの「論語論」へと広がっていった。

諸橋轍次の『論語三十講』、吉川幸次郎の『論語のために』、岡田武彦の『現代に生きる論語」、武者小路実篤の『論語私感』、安岡正篤の『論語の活学』など、大学の図書館にあった錚々たる「論語論議」のほとんどを読みあさった。

それはまた、驚嘆と感激の連続であった。

日本の研究者たちは、これほどの深さで論語を理解していたのか。

論語の言葉一つ一つが、様々な角度からその意味を深く掘り下げられて、平易にして心打たれる表現で解説されていた。

それだけではない。人類社会のしかるべきあり方、政治的指導者の持つべき心構え、われわれ一人一人の持つべき世界観と人生観、他人に対して持つべき思いやりと謙遜、まさに哲学・政治学・社会学・人間学としての論語論議は、縦横無尽に展開されているのである。

しかも、それらの先生方の論語を語る言葉の一つ一つには、孔子様という聖人に対する心からの敬愛と、論語の精神に対する全身全霊の傾倒の念が、たっぷりと込められていることに、すぐ気がついた。

日本の研究者たちは本当に、孔子の人格と心に親しみを感じていて、論語と孔子様をこの上なく愛しているのだ。

言ってみれば、わが孔子とわが論語は、まさにこの異国の日本の地において、最大の理解者と敬愛者を得た感じであった。

特に、本場の中国において、孔子と論語が、まるでゴミ屑のように一掃されてしまった、「文化大革命」の時代を体験した私には、この対比はあまりにも強烈なものであった。私に論語の言葉を書き写させた例のノートブックを、夜一人でひそかに燃やしたわが祖父の姿を思い出す時、隣の文化大国の日本で広く親しまれて敬愛されていることが、孔子様と論語にとってどれほど幸運であるのか、感嘆せずにはいられないのである。


『私は「毛主席の小戦士」だった』より

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